「九死に一生」

中村謙次郎(学生)

中村謙次郎

亡き曾祖父が教えてくれた事」
    京都市 中村謙次郎
 世界で活躍するビジネスマンになりたいからです。
私の曾祖父は100年ほど前に現在のフィリピンに行き、当時日本では珍しく高価だったバナナを現地の島を買い取って日本に輸入しました。ただ輸入し高く売るのではなく、現地の人たちとも交渉して、子供からお年寄りまで、皆に食べて欲しいと庶民に手が届く値段で安く販売し、多くの人たちに支持されたそうです。私の父が曾祖父に、何でその時もっと高い値段で売らなかったのか聞くと「私は人が喜んでいる顔が一番好きやから、そんなお客さんを見ているだけで幸せやった。」と言ったそうです。私はその話を小学生の低学年の頃に聞き、幼いながらに感動した事を覚えています。また、その時に将来は人に喜んでもらえる、商人(ビジネスマン)になりたいと思いました。
 そんな私も中学生になり、引越しで仲の良い友人と学校が離れ離れになってしまいました。その事もあり、私はあまり学校に行かなくなりました。しかしこれではいけないと 思い切って学校へ行くと、担任の先生から君みたいな子がいると迷惑だと言われました。
これが、学校の先生が言う発言なのかと、
とてもショックを受けました。こんな事親に相談しても余計な心配をかけるだけと、一人で悩んでいる時に、一人の先生が声をかけてくれ、色々相談などにものってくれ、気持ちも前向きになりました。
高校に入学した私は、人生で最大のピンチを迎える事になりました。私は3つ上の兄とバイクでツーリング最中に事故に合い、首の骨が砕ける大怪我をしました。事故現場にいた夫婦が救急車を呼んでくださり、ヘリコプターで病院に搬送されたのですが、処置室に運ばれた時、レントゲンを見ながら、先生は首から下は動かなくなると言われました。
母も同じ部屋にいたのですが、それを聞いた時、泣き崩れていた姿は今でも鮮明に憶えています。私は本当に申し訳ない事をしたと思いました。その時なぜか、耳元で声が聞こえてきました、「人に喜ばれる人間になれよ」と。その夜、六時間にも及ぶ手術が終わり、麻酔で意識が朦朧とするなか、執刀医の先生が「無事成功したよ、よく頑張った」と言ってくださいました。翌日、目が覚めると母の姿がありました。ハンカチで目じりを抑えながら、笑顔で「生きていてくれてよかった」と言葉を詰まらせながら、私にそうつぶやきました。
先生からは、「手足が動くのは、本当に奇跡だ」と言われ、「普通はあいてない首の骨と神経の隙間が生まれつきあったから後遺症がなかった」、と説明されました。「与えられた命を大切にしないと」、と私の肩に手をポンと置き言って下さいました。
その言葉はとても重みのある言葉だと感じました。この事故をきっかけに、何事も前向きに、取り組むようになりました。また、その時に考えました、なぜあの時に「助かったのか」なぜ、「何の後遺症も無く無事だったのか」私はその事を、入院している間、ベットに横になりながら考えていました。すると小さい頃からお世話になっている恩師がお見舞いに来てくださり、私にこう言いました、「天から頂いた大切な命」それを良いことにつかうのか、悪い事につかうかはこれからの、あなた次第と言って頂き、私はなぜか、涙が止まりませんでした。その時に心に誓いました。将来は人の役にたち、これまで社会に頂いた「恩を返す時がきた」と思いました。翌年大学に入学し、そこで多くの留学生と出会う事が出来ました。各国の文化や風習など、異文化交流がとても楽しく、刺激的でした。
また、自分の世界を見る視野の狭さにも気付き、もっと世界を見てみたいと、思うようになったのもその時からでした。4年間の大学生活の中で、志しの高い友人と出会う事が出来ました。経営学部だったこともあるのですが、数多くの経営者にも出会う事も出来ました。そういう人たちと接して感じる事がありました。それは人を引き付ける魅力を持った人が多い事でした。当たり前の事かもしれませんが、私はすごく憧れをもち、私も人間力溢れる人になりたいと思いました。また、世界に行けばもっとすごい人たちがいるのかと思うと、早く英語を話せるようになって、世界のトップクラスの人たちと交流を持ちたい
もっと自分の可能性を広げたいです。そしてこれまで社会に与えて頂いた恩を少しでも返していきたい。それが天から与えられた 私の使命だとおもいます。

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